日本の地方医療は今、静かなる崩壊「サイレント・コラプス」の瀬戸際にあります。これは単一の課題ではなく、経営、人材、インフラ、政策、そして人口動態という複数の要因が相互に連鎖し、互いを悪化させ合う「複合的危機(Polycrisis)」と定義されます。
この危機を象徴するデータが、2024年度における地方自治体(公立)病院の経営実態です。総務省の調査によれば、自治体が運営する病院の86%が経常赤字であり、医療サービス本体の収益性を示す医業収支で見れば、実に95%が赤字です 。
この数字は、もはや個別の病院の経営努力の失敗を意味しません。地方の公的医療インフラ全体が、制度疲労によって「赤字常態化」していることの動かぬ証拠です。
今回は、この「赤字」が単なる結果ではなく、後続する人材不足、インフラ老朽化、そして政策対応の問題をさらに加速させる「原因」としても機能している悪循環の構造を紐解ければと思います。
なぜ地方病院の86%が「赤字」なのか?

地方病院の経営は、コロナ禍という未曽有の事態によって一時的に隠蔽されていた構造的な脆弱性が、コスト高騰と支援の終了によって一気に露呈した状況にあります。
「コロナ補助金の崖」とコストの三重苦
コロナ禍において、多くの病院は病床確保料などの多額の国庫補助金によって、一時的に黒字化していました 。しかし、この補助金は根本的な経営体質の「治療」ではなく、一時的な「鎮痛剤」に過ぎませんでした。
2024年度に入り、これらの補助金が縮小・終了(剥落)すると、水面下で進行していたコスト高騰が一気に経営を直撃しました 。病院は24時間365日の稼働を前提とするため、電気・ガス代の高騰は甚大な影響を与えています 。加えて、医薬品費、診療材料費、そして最も深刻な人件費の高騰が収益を圧迫しています 。
特に北海道や東北地方の病院では、その構造的課題が顕著です。広大な地域をカバーするための医療搬送費や、都市部との人材獲得競争に勝つために引き上げざるを得ない給与水準がコストを押し上げます 。一方で、地域の人口減少は患者数の減少に直結し、収益の基盤を侵食します 。これは、地方病院が「コスト増と収益減の二重苦」に陥っていることを示しています。
医療制度の「赤字の仕組み」
地方病院の経営努力を無力化しているのは、外部環境の変化だけではありません。医療制度そのものに、構造的な赤字要因が組み込まれています。
第一に、診療報酬制度です。医療機関の収入の根幹である診療報酬は、公的医療サービスを提供する機関にとって死活問題です 。2024年度の診療報酬改定は、本体部分でプラス0.88%とされましたが、これは看護師などの賃上げにその多くが充当される仕組みであり、さらに薬価(医薬品の価格)や材料価格のマイナス改定によって、実質的な病院の増収効果はゼロに近いと分析されています 。収入は「全国一律の定価」で固定されているにもかかわらず、コストだけが地域固有の事情(インフレ、人件費高騰)で上昇し続ける「収入と支出のアンバランス」が常態化しています。
第二に、消費税の問題です。病院の主要収入である保険診療は非課税であるため、医療機器の購入、医薬品の仕入れ、外部委託費にかかる消費税を、製造業のように売上税額から控除することができません 。この「控除できない消費税」は、そのまま病院の持ち出し(「損税」)となります。例えば、10億円のMRIを導入すれば、1億円の消費税がそのまま病院のコストとして経営にのしかかります 。
この消費税負担の仕組みは、病院がインフラ(施設・設備)の更新を行おうとするほど、財務的なペナルティが増加することを意味します。これは、経営努力でのカバーを不可能にし、病院の未来への投資意欲を制度的に削いでいる直接的な要因です。
「医師の働き方改革」が、なぜ地方の人材不足に拍車をかけているのか?

地方病院の医療提供体制は、歴史的に「医師の長時間労働」という、ある種の自己犠牲的な献身によって支えられてきました 。しかし、医療従事者の絶対的な不足(枯渇)と、2024年4月1日から本格的に適用が開始された「医師の働き方改革」という二重の衝撃(ダブルパンチ)により、その脆弱な前提が崩壊し、地域医療の維持そのものが困難になりつつあります。
医療従事者の絶対的不足と偏在
地方、特に中小規模の病院における人材不足は深刻を極めています。ある調査によれば、中小病院における医師の定数に対する充足率は全体で85.0%に過ぎず、特に医療提供の中核を担う150~199床規模の病院では76.8%まで落ち込んでいます 。
この不足は医師に限らず、看護師や薬剤師の確保も同様に困難であり、スタッフの不在が直接的に「診療科の閉鎖」や「病床数の削減」、そして「診療収入の減少」という経営悪化に直結しています 。
問題は「絶対数」であると同時に、深刻な「分布」の問題でもあります。医師はキャリア形成や子どもの教育環境などを考慮し、高度医療を提供できる都市部の施設を志向する傾向が強いです 。結果として、地方の医師不足(地域偏在)と、リスクや負担の大きさから敬遠されがちな産科・小児科といった特定の診療科の医師不足(診療科偏在)が同時に発生しています。
多くの地方病院は、都市部の大学病院からの「医師派遣」に依存して診療体制を維持してきました。しかし、その派遣元である大学病院自体にもはや余力はなく、地方病院からの派遣要望は「本来必要な数(推測では数倍)」ではなく、派遣元の事情を考慮した「最低限の要望」に留まっているのが実態です 。
「医師の働き方改革」という矛盾
2024年4月、医師の健康確保と医療の質を担保するため、医師の時間外労働に上限(原則として月45時間・年360時間)が適用されました 。この改革は医療界の長年の課題であり、それ自体は必要不可欠な措置です。
しかし、地方病院にとっては、根本的な「人材不足」という問題を未解決のまま、「労働力の総供給(総労働時間)」だけを強制的に削減する政策となりました。医師の長時間労働に依存していた病院は、従来の医療提供体制を維持するために、ただちに人材を補充する必要に迫られています 。
その影響はすでに出始めています。救急病院の約2割が「働き方改革によって地域医療に悪影響が出ている」と回答しており、特に大学病院等からの「医師派遣の減少」が現実のものとなっているのです 。
この状況は、地方病院に致命的な悪循環をもたらしています。
- 働き方改革により、医師一人当たりの労働時間が法的に制限されます 。
- 病院は同じ体制(例:救急外来)を維持するため、より多くの医師(人員)が必要となります。
- 地方には補充すべき医師が枯渇している状況。(人材不足) 。
- 結果、病院は二つの選択肢を迫られます。一つは、給与を高騰させてでも都市部から派遣医を確保しようとすること。これは経営圧迫 をさらに加速させます。
- もう一つの選択肢は、救急体制の縮小や診療科の閉鎖を受け入れること です。これは、地域医療の質の低下 に直結します。
働き方改革に対応するためには、医師の業務を他職種に移管する「タスクシフト/シェア」 や、医師事務作業補助者の配置 が推奨されていますが、そのためには新たな人材の確保や教育、そして初期投資が必要となります。それらを実行する体力は、「経営難」によって、すでに奪われているのです。
人口減少なのに、なぜ医療現場のニーズは複雑化しているのか?

地方病院は、一見すると矛盾する二つの巨大な人口動態の波に同時に直面しています。それは、「人口減少による患者数の絶対的減少」と、「超高齢化による医療ニーズの質的変容」です。
人口減少による「市場の縮小」
地方における人口減少は、そのまま「患者数の減少」に直結します。病院経営の観点からは、これは「診療報酬収益の減少」を意味します 。
現在の日本の医療制度、特に診療報酬体系は、提供した医療行為の量に応じて収益が上がる「出来高払い」の側面が強いです。したがって、地方病院がどれほど質の高い医療を提供しようとも、その医療を必要とする患者(人口)が減少すれば、経営は成り立たなくなります 。これは、個々の病院の経営努力では抗うことのできない「市場の消失」という構造問題です。
85歳以上人口増加による「ニーズの変容」
一方で、地方病院の現場では、別の現象が起きています。2025年以降、いわゆる「団塊の世代」が後期高齢者(75歳以上)に達し、その増加は徐々に緩やかになります。しかし、それと入れ替わるように、「85歳以上の人口」が2040年に向けて継続的に増加していきます 。
医療需要の観点から、この「85歳以上」という年齢層は、75歳~84歳の層とは明確に異なる特徴を持ちます。要介護認定率は年齢と共に上昇し、特に85歳以上で急上昇します 。これにより、現場では「医療と介護の複合的ニーズ」を持つ患者が急速に増加しているのです 。
85歳以上の患者の急性期入院における傷病名を見ると、若年層とは異なり、医療資源を多く要する手術を伴うものは少なく、「食物及び吐物による肺臓炎(誤嚥性肺炎)」「うっ血性心不全」「尿路感染症」といった、手術を伴わない内科的治療が上位を占めています 。
需要のパラドックスと制度的ミスマッチ
地方病院が直面しているのは、単純な患者減ではありません。それは、「収益性の高い急性期医療(手術や短期集中治療)の対象患者」は減少し(市場の縮小)、同時に「医療資源(看護・介護)を長期に要するが収益化しにくい複合ニーズの患者」が急増するという「需要の質的パラドックス」です。
このパラドックスは、現在の医療制度との間に深刻なミスマッチを生み出しています。病院の施設、人員配置、そして診療報酬制度の多くは、旧来の「急性期医療」を効率的に提供することを前提に設計されてきました。
しかし、現場で急速に増えているのは、急性期治療(例:肺炎の抗生剤治療)が終わった後も、ADL(日常生活動作)が低下し、すぐに在宅や介護施設に復帰できない「医療と介護の複合ニーズ」を持つ高齢者 のケアです。この「制度と現実のミスマッチ」こそが、病院経営と、国の医療政策との間に大きな歪みを生み出す根本原因となっています。
なぜ病院の「建て替え」や「医療機器の更新」が進まないのでしょうか?
経営難、人材難に加え、地方病院は物理的な「器」である施設・設備の老朽化という、静かに進行する時限爆弾を抱えています。
施設の老朽化と建て替えの壁
全国の病院施設の実態調査によれば、「築40年以上の病院」が1,623件に上り、これは病院全体の27%を占めるという深刻な状況にあります 。
これらの老朽化した病院が、必要な入院環境の整備や建て替えを進められない最大の理由は、建築コストの異常な高騰です 。2024年時点の建設単価は、2015年比で1.5倍にまで達しています 。病院の建て替えや大規模改修は、数十億円規模の「投資負担の集中」を伴います。
しかし、確認した通り、地方の公立病院の86%が恒常的な赤字経営に苦しんでおり、建て替えのための内部留保(自己資金)は枯渇しています。福祉医療機構からの融資 にも限界があり、財政的な行き詰まりから、統廃合計画すら実行できないケースも報告されています 。
老朽化した施設 は、単に古いというだけでなく、それ自体が経営の足かせとなる「負の遺産」です。
更新できない医療機器
施設の老朽化と並行して、医療の質を支える医療機器の更新も困難になっています。地方の公立・民間医療機関は、慢性的な予算不足に陥っており、高額な医療機器の更新や拡充が難しい状況にあるのです 。
医療の質は、CT、MRI、内視鏡システムといった医療機器の技術進歩と不可欠です。これらの機器を更新できないことは、提供できる医療の選択肢を狭め、診断の精度や治療の効率性を低下させます。
この「医療機器の格差」は、さらなる負のスパイラルを引き起こします。
- 機器の老朽化により、非効率な診断や治療が続きます。
- 最新の機器や技術を習得したいと考える優秀な医師が、その病院への赴任を敬遠し、あるいは離職します(人材危機)。
- 患者も、より設備の整った都市部の病院へと流出します(患者減)。
- 結果として病院の収益はさらに悪化し(経営危機)、ますます機器への投資(リース契約も困難 )ができなくなります。
医療機器への投資は単なる「コスト」ではなく、医療の質と医師を確保するための「未来への投資」です。この投資ができない地方病院は、地域内での競争力を失い、緩やかな淘汰へと向かわざるを得ません。
国の「地域医療構想」は、なぜ現場の淘汰圧となっているのか?

厚生労働省は、こうした地方病院の危機、特に人口動態と医療ニーズの変化に対し、政策的な「処方箋」を提示してきました。それが「地域医療構想」と「診療報酬改定」です。しかし、この処方箋は、現場の実態と乖離し、多くの地方病院にとって意図せざる「淘汰」の圧力として働いていると考えざる終えない状況です。
地域医療構想(病床機能の見直し)の進捗と実態
地域医療構想 は、2025年、さらには2040年に向けて、地域の医療ニーズに基づき、病院の病床機能を分化・連携させること(例:過剰な急性期病床から不足する回復期病床への転換)を目指すものです 。
マクロなデータ(全国集計)で見れば、この構想は一定の進捗を見せています。2015年から2022年にかけて、急性期病床は減少し、回復期病床は増加する傾向にあり、国が示す「必要量」との乖離は縮小しています 。再検証対象とされた公立・公的病院 においても、「病床機能の見直し」や「病床数の見直し(ダウンサイジング)」 が進められています。
しかし、ミクロ(地域ごと)の視点では、多くの課題が山積しています。「対応方針の策定率が100%にならない」構想区域が依然として存在し、その理由として「地域医療構想調整会議で合意が得られない」「対応方針の策定を拒否する医療機関がある」といった、地域のステークホルダー間の利害調整の難航が挙げられています 。
2024年診療報酬改定という「ふるい」
この地域医療構想をさらに強力に推進するため、国は診療報酬改定を行います。特に2024年度の診療報酬改定は、「地域に必要な機能を果たさない病院」を「ふるい」にかけ、「地域で必要な機能を有する病院」への転換、あるいは退場を迫る厳しいものと受け止められています 。
その象徴が、「医療と介護の複合ニーズ」を持つ高齢救急患者に対応するための「地域包括医療病棟入院料」の新設です 。この新病棟の創設は、政策の方向性としては、高齢化の現実 に応える正しいものです。事実、中小病院(在宅療養支援病院)の調査では、4割強がこの新病棟への移行を「検討中」としています 。
問題は、その「施設基準(ハードル)」が、現場の実態に対して極めて高いことにあることが原因です 。
- 政策の要求
新病棟の基準は「在宅復帰率80%以上」「ADL(日常生活動作)が低下した患者割合5%未満」「専従のリハビリスタッフ2名以上配置」など 。 - 現場の実態
しかし、地方ではリハビリスタッフ等の「人材が枯渇」しています。また、受け入れるべき「85歳以上の複合ニーズ患者」は、そもそもADLの維持や在宅復帰のハードルが極めて高い層です。 - 現場の声
この基準設定に対し、医療現場からは「高齢救急搬送患者の実際の動態を見ずに、机上で設定したように感じる」 と厳しい指摘が上がっています。結果、過半数の病院が「移行しない」 と回答しているのが現実です。
結論として、国の政策は、地方病院が直面する「人材不足」と「医療ニーズの質的変容」という二重の現実を十分に顧みず、実現困難な「理想の姿」を基準として形成されています。結果として、基準を満たせない病院が「ふるい落とされ」 、地域医療構想 が目指す「効率的な医療提供体制」の構築は進まず、むしろ地域医療インフラそのものがさらに脆弱化する危険をはらんでいます。
この危機的状況に、有効な「処方箋」はあるのか?

この複合的危機に対し、地方病院は「自助努力(DX)」「共助(地域連携)」「公助(人材育成)」の三つの側面から必死に活路を模索しています。これらの取り組みは地域医療の維持に不可欠ですが、それぞれに高い壁が存在します。
「病院DX」による業務効率化(自助)
最も強力な自助努力の手段が、デジタルトランスフォーメーション(DX)による業務効率化です。
長野県の相澤病院の先進事例では、院内の通信インフラを旧来のPHSからiPhoneへと全面的に移行し、電子カルテアプリを導入しました 。これにより、看護師は重いカートを押すことなく、手元の端末でバイタル入力や患者情報のリアルタイム閲覧が可能になりました。医師も、院外(自宅待機中など)から患者の状態を正確に確認し、より精度の高い指示出しができるようになったのです 。
このDXがもたらした最大の変革は、コミュニケーションの変化です。患者ごとに自動で立ち上がるチャット機能 により、医師、看護師、その他のスタッフが情報を共有。従来の1対1の電話連絡から「1対多」の情報共有へと進化し、情報伝達のスピードと正確性が格段に向上しました 。同院が目指すのは、「少ない人数でも今まで以上のサービスを提供」することであり、これは「医師の働き方改革」への最も有効な処方箋の一つです。
しかし、このDX推進には高い壁が存在します。第一に「投資の壁」です。電子カルテシステムの導入や院内Wi-Fi環境の整備には、多額の初期投資が必要となります 。しかし、「経営難」と「インフラ老朽化」に直面する多くの地方病院には、その投資原資がない状況です。
第二に「ICTの壁」です。特に過疎地や離島などの「へき地医療」 において、遠隔診療やICTの活用は、医療アクセス を改善する切り札として期待されます。だが、現実には医療機関間での「情報共有システム自体の浸透不足」が、連携のボトルネックとなっています。
「地域医療連携」による機能分化(共助)
個々の病院での自助努力が限界に達する中、地域の医療機関同士が機能分化し、連携する「共助」が不可欠となっています 。
病院、診療所、介護施設、訪問看護ステーションなどが緊密に連携 することで、患者情報が共有され、重複検査や重複投薬といった非効率が排除されます。さらに、スムーズな患者紹介・逆紹介(急性期病院から回復期・在宅へ)が可能となり、結果として、医師やスタッフの業務負担が軽減されます。
ある地方都市のA総合病院の事例では、地域の高齢化に対応するため、IT(ICT)を活用した情報共有システムと、定期的な多職種カンファレンスを導入しました 。連携する医療機関や介護施設との間で患者の状態変化をリアルタイムで把握できる体制を整備した結果、導入から1年で「在宅復帰率が75%から85%に向上」し、「退院後30日以内の再入院率が18%から12%に低下」するという劇的な成果を上げています 。
このA病院の事例は極めて重要です。ICTを活用した緊密な「連携(共助)」によって、「在宅復帰率85%」という高い水準を達成しており、これは国が政策的に示した「地域包括医療病棟」の困難な基準 をクリアできる可能性を示唆しているからです。
だが、この「連携」の実現は容易ではありません。最大の課題は、依然として「医療従事者の地域偏在」(連携すべき相手がいない) 、「各医療機関の機能が不明瞭」(誰に何を頼めばいいか分からない) 、そして前述の「情報共有システムの浸NTT不足」 です。相澤病院の「松本モデル」 のように、地域の中核病院が強いリーダーシップを発揮しない限り、利害の異なる医療機関の連携は進みにくいのが現実です。
「地域枠」による人材確保(公助・自助)
長期的な人材枯渇への対策として、国や都道府県は「地域枠」や「地元枠」といった医師養成課程を通じた偏在対策を進めてきました 。
これらの取り組みは一定の成果を上げており、特に医師少数区域における若手医師の確保に「地域枠」出身者が貢献していることがデータで示されています 。
しかし、これも万能薬ではありません。大学卒業後、その医師が地元(卒業大学が所在する都道府県)に「残る割合」には、地域によって大きな差があります 。また、医師自身の「学問的興味や専門性維持」への志向が、地域医療や総合診療のキャリア選択を阻害する因子となっていることも明らかになっており 、地域枠で確保した人材の定着には、キャリアパスの整備といった更なる施策が求められます。
まとめ
地方病院が直面する危機は、経営、人材、インフラ、人口動態、政策が複雑に絡み合った「複合的危機(Polycrisis)」です。
第1章の「経営難」は、第2章の「人材確保」と第4章の「インフラ更新」を財務的に阻害します。第2章の「人材不足」は、第5章の「政策(働き方改革・診療報酬改定)」への対応を物理的に不可能にします。そして、第3章の「人口動態の変化」は、この全ての前提を根底から揺るがしています。
個々の病院による「自助努力」は限界を超えており、地域医療の持続可能性を確保するためには、国策として「根本治療」に踏み切る以外に道はありません。
- 短期的な「止血」(財政支援の正常化)
もはや猶予はありません。医療機関の投資意欲を削ぐ「消費税(損税)問題」 の即時見直し(あるいは還付措置)、物価・光熱費・人件費の異常高騰を反映させるための診療報酬の「期中改定」 、そしてインフラ老朽化対策 のための、地域医療介護総合確保基金や公的融資の抜本的強化 が不可欠です。 - 中期的な「機能再編」(連携と集約の断行)
全ての病院が全ての機能(急性期から慢性期まで)を維持することは、人口減少社会においては不可能です。A病院の事例が示すように、ICTを活用した「地域医療連携」を加速させ、急性期、回復期、在宅、予防の役割分担を地域単位で明確化するしかありません。そのためには、連携を阻害する「情報システムの壁」 を突破する、国主導による医療情報システムの標準化と、それに対応する病院へのDX投資支援が求められます。 - 長期的な「制度の現実化」(政策の最適化)
政策は「理想」ではなく「現実」に基づいて設計されなければなりません。「地域包括医療病棟」の施設基準 は、「人材不足」と「85歳以上の患者実態」を踏まえ、より現実的な水準(例:在宅復帰率の緩和やADL維持基準の見直し)に直ちに見直すべきです。同様に、「医師の働き方改革」は、それを実効あらしめるための「タスクシフト/シェア」 の抜本的な推進(例:看護師特定行為の拡大、救急救命士の業務範囲拡大)とセットでなければ、地方の救急医療 を崩壊させる両刃の剣となります。
地方病院の危機は、もはや医療だけの問題ではありません。それは、日本の地域社会全体の持続可能性の危機です。個別の「対症療法」を続ける猶予はなく、財政、人材、インフラ、政策のすべてを動員する「根本治療」としての地域医療の「再設計」が、今まさに求められています。
よくあるご質問
- Q「病院DX」とは、具体的にどのようなことですか?
- A
長野県の相澤病院の事例では、院内の通信手段をPHSからスマートフォン(iPhone)に移行し、電子カルテアプリを導入しました。これにより、看護師が手元の端末でリアルタイムに患者情報を閲覧したり、バイタル入力を行ったりできるようになりました。また、患者ごとに自動で立ち上がるチャット機能を通じ、医師や看護師、他職種間の情報共有が格段に迅速化・効率化されています。
- Q「地域医療連携」を進める具体的なメリットは何ですか?
- A
大きく3つのメリットが挙げられます。第1に、病院や診療所間で患者さんの診療情報が共有されるため、重複した検査や投薬を防ぎ、より質の高い医療提供が可能になります。第2に、急性期病院から回復期病院、あるいは「かかりつけ医」への転院や紹介(逆紹介)がスムーズに行えます。第3に、これらによって医療資源が効率的に活用され、結果として医師やスタッフの業務負担が軽減されます。
- Qなぜ医師は地方よりも都市部に集まりやすいのでしょうか?
- A
複数の理由が指摘されています。一つは、都市部には高度医療を提供する施設が多く、専門性を高めたいという医師のキャリア志向と合致するためです。また、特に30代以降の医師にとっては、自身の子どもの教育環境を考慮して都市部での生活を希望するケースも多いとされています。
- Q地方の病院で高額な医療機器の更新が進まないのはなぜですか?
- A
地方の公立・民間医療機関の多くが、慢性的な「予算不足」に陥っていることが直接的な原因です。これに加え、制度的な問題もあります。病院の主要収入である保険診療は消費税が非課税のため、医療機器の購入時に支払った消費税を控除できず、そのまま病院の持ち出し(損税)となってしまい、経営を圧迫するためです。
- Q2024年4月からの「医師の働き方改革」で、現場にどのような影響が出ていますか?
- A
医師の時間外労働に上限が課されたことで、従来の長時間労働に依存していた医療体制の維持が困難になっています。ある調査によれば、救急病院の約2割が「働き方改革によって地域医療に悪影響が出ている」と回答しています。具体的には、派遣元の大学病院などに余力がなくなり、「医師派遣の減少」が現実のものとなっています。
